中世に始まる大和絵の流派である土佐家に伝えられた粉本及び文書類である。旧蔵者である水産学者の松井佳一は、土佐分家の末裔である土佐光輝が所蔵した粉本を一括譲り受けたと伝えられ、まくり、冊子、巻子など約2000点から構成される。現在東京国立博物館が所蔵する「土佐文書」も当初は一具のものであったと考えられる。分家に伝えられた資料ではあるが、明治12年(1879)に土佐本家の土佐光文が亡くなり、以後土佐家の中心人物となったのが分家の土佐光武であったところから、分家が土佐家の粉本類を管理するようになっていたものと思われる。資料全体は土佐光武によって整理を受けた痕跡がみられ、一部の資料は、旧蔵者により装備されたものがある。粉本は16世紀の年紀をもつ資料から残されており、土佐光吉が土佐光茂から譲渡された粉本の一部を含んでいることが推測される。また、本来は「土佐文書」と1具であったと思われる《大芋荘年貢米注進状等》は15世紀から16世紀にかけての土佐家の知行関係文書を集めたもので、本資料中最も古い資料である。絵画資料の中には土佐家文書583点が含まれており、土佐光起以後の近世土佐家の活動状況をうかがわせる資料となっている。資料群の中で早くから知られていたのは、平等院鳳凰堂板絵模本と16世紀から17世紀にかけての肖像粉本だが、復古内裏造営絵事御用資料や、おびただしい花鳥器物の写生群も、幅広い年紀を持つ写生資料として貴重である。粉本は大半が土佐家またはその周辺の画人によるものと考えられ、作者として確認できるのは土佐光茂、土佐光吉、土佐光則(1583〜1638)、土佐光起(1617〜1691)、土佐光成(1646〜1710)、土佐光祐(1675〜1710)、土佐光芳(1700〜1772)、土佐光淳(1734〜1764)、土佐光時(1765〜1819)、土佐光禄(1794〜1849)、土佐光文(1813〜1879)、土佐光章(1848〜1875)、土佐光貞(1738〜1806)、土佐光孚(1780〜1852)、土佐光清(1805〜1862)、土佐光武(1844〜1916)、土佐光輝(1874〜1921)である。 |