六角堂能満院の仏画工房で使用された粉本を中心とする江戸時代後期の仏画粉本である。六角堂は京都市中京区にある天台宗寺院頂法寺の通称で、その境内にあった智積院末真言宗寺院が能満院である。幕末期この能満院に無言蔵憲海(1798〜1864)という僧が住し、数名の弟子とともに仏教図像の収集と図像経疏の印行を行った。元治元年(1864)の兵火で能満院は焼亡し、蓄積された図像や版木も多くが失われたものの、一部救い出されたものが現在に伝えられている。図像の収集は個人的な事業ではあったが、若い時から始められており、対象とする図像は高僧肖像や垂迹絵画に及んで幅広く、稀有な図像群を作り出している。憲海は会津に生まれ、長谷寺で修学した後、一旦は会津の喜福院の住持となったが、やがて京都に出て、慈雲飲光の提唱した正法律を護持しつつ、独自の宗教活動を展開した。洋画家であり、京都府画学校の教員をつとめた田村宗立(1846〜1918)ははじめこの能満院において憲海に弟子入りしており、能満院工房の一員として最後まで京都に在住したため、能満院旧蔵粉本を継承することになった。宗立没後の大正8年(1919)に、経疏文書は智積院に、図像粉本は京都市立絵画専門学校に田村家から寄付され現在に至っている。図像粉本類は、二つの粉本用書箱に分類収納された状態で伝えられ、総数は約2700点にのぼる。うち約1割は版本であり、能満院が実践した普及活動である印行に関わる資料である。憲海は能満院が焼失してまもなく亡くなるが、その後弟子たちが御室版両部曼荼羅の印行に協力して師の遺志を伝えている。従って粉本全体は、能満院工房資料の他、憲海没後の弟子たちの活動による資料も含んでいる。智積院に寄付された資料は智山文庫の一部として整理されている。 |