望月家が所蔵した望月家累代の資料群。粉本や画稿の他、文書を含む。京都の望月家は、天正年間、近江から京都に移った道泉により起こされた。四代重悦は蒔絵師となり、その子五代重勝が、画系である望月派の初代となる玉蟾(1692-1755)である。玉蟾は、土佐光成、山口雪溪に学び、水墨画に優れ。書を佐々木志津磨に学んで、漢籍・漢詩も能くするなど文人趣味を見せる画家であった。望月派は、初代玉蟾以後、二代玉仙(1744-1795)、三代玉川(1794-1852)、四代玉泉(1834-1913)、五代玉溪(1875-1938)、六代玉成(1900-1951)と近代にいたるまで、代々画家として家業を守り伝えた。特に玉泉は、菊亭家に仕え、御所の御用を受けることも多く、帝室技芸員として、写生に重きを置きながら、諸派を折衷して華やかな世界を描くことで知られた。京都府画学校の創立にあたっては、幸野楳嶺と連名で学校設立を建議し、開校後は教員として後進を指導したほか、女学校や盲唖院での絵画教育にも関わるなど、絵画指導者として大きな足跡を遺している。これら資料群は、漆芸の道に進んだ七代重延が継承していたが、望月家に所縁のある本学に寄付された。250年近くの間画業を継続した流派に伝えられる粉本類が、その関連資料とともに大きな散逸をまぬがれて伝えられたことは貴重である。粉本群は大部分が画題別にまとめられており、三代玉川の時代に作られた望月家の画塾資清館の墨書押印された資料が多くみられる。明治期の資料では、作品制作別に資料がまとめられた例も見られ、当時の絵画制作の様子を具体的に残している点が興味深い。粉本群には、収集された粉本も含まれており、江戸時代後期の画家小林霞村による古画模本群は特に大きな一群を形成する。総数は現在約12000点である。 |