土佐 光吉
とさ みつよし
天文8年(1539)〜慶長18年(1613)
土佐光茂の弟子。元名は玄二(源二)。子に土佐光則がいる。永禄12年(1569年)光茂の子の土佐光元が戦死した後、光茂より、紙形、文書を譲られ、光元遺児3人の養育を託されたとされる。狩野派とも交渉をもち、大坂城、二条館などの障壁画を描くが、堺衆との親交が深く、堺を拠点として離れなかった。晩年剃髪して久翌と号した。源氏物語など古典に取材した絵画に工夫を凝らし、《源氏物語手鑑》に見られる細画から《曽我物語図屏風》のような大画面まで華やかな作風を示した。
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