土佐 光祐
とさ みつすけ
延宝3年(1975)〜宝永7年(1710)
土佐光成の子として京都に生まれる。大和絵の流派として知られる土佐派を再興した土佐光起の孫にあたる。幼名藤満丸。初名を光高といい,左兵衛とも称した。元禄9年(1696)正六位下,左近衛将監に任ぜられた際もこの名であったことから光祐の名が用いられたのはかなり遅いものと思われる。夭折したため作例は比較的少ないが,繊細で華麗な彩色画に優れ,早熟の才能を見せた。宝永6年(1709)宝永度内裏造営の際に障壁画を担当し,常御殿御三間に《栄花物語図》を,剣璽之間に《四季之花鳥図》を描いた。墓は京都市知恩寺にあり,墓所に土佐家累代供養塔を建立している。
 (C)京都市立芸術大学芸術資料館