土佐 光茂
とさ みつもち
明応5年頃(c.1496) 〜 没年不詳
土佐光信の子。子は土佐光元。大永3年(1523年)には既に光信の跡を継ぎ絵所預に補任された。左近将監を経て、享禄元年(1528年)従五位上、享禄5年(1532年)正五位下刑部大輔に至る。天文19年(1550年)近江穴太に足利義晴の寿像を描くため下向。永禄3年(1560年)宮中の依頼で《車争図》を制作。永禄12年(1569年)織田信長の命により足利義昭邸障壁画を制作するが、同年息子光元が戦死する。まもなく、弟子の土佐光吉に土佐家代々の記録書や粉本を譲り、光元の遺児3人の養育を頼むと、堺で亡くなった。
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