谷 文晁
たに ぶんちょう
宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
漢詩人谷麓谷の長男として江戸に生まれる。名は正安。通称文五郎。初号文朝。別号に写山楼・画学斎など。画ははじめ狩野派の加藤文麗、長崎派の渡辺玄対に学び、北山寒巌に学ぶほか、朝鮮画や西洋画に至るまで諸種の流派を学んだ。古画の模写と写生を基礎に、南北諸派を折衷した独自の画風を生み出し、江戸における文人画壇の重鎮となった。26歳から田安家に仕え、松平定信の近習となり、『公余探勝図』を制作。『集古十種』の編纂にも携わる。また画塾写山楼で多くの弟子を教育し、門下に渡辺崋山、立原杏所などがいる。文政12年(1829)定信の死により落飾。天保8年(1837)法眼に叙され文阿弥と号した。
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