奥田 頴川
おくだ えいせん
宝暦3年(1753年)~文化8年(1811)
生家は中国河南省頴川出身の亡命明人の末裔といわれる。鴨東で質屋「丸屋」を営む奥田家の養子となり、4代目となった。名は庸徳、通称茂右衛門、号頴川は実家の姓でもある。家業より趣味に傾倒し、陶芸への興味が深く、三十代で隠居して、奥田家に所縁のある建仁寺内に開窯する。清水焼の名工海老屋清兵衛に学び、すでに磁器が伝えられた瀬戸の技術を学んで、天明年間(1781-89)に京焼最初の磁器焼成に成功した。文人趣味が強く、従来の京焼とは異なる染付、呉州赤絵、交趾など中国風の絵付けを施し、評判を得た。青木木米、仁阿弥道八ら若い工人にこれらの技術を伝え、京焼の発展に貢献した。
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