中島 有章
なかじま ゆうしょう
天保8年(1837)~明治38年(1905)
円山派の画家中島来章の子。字は文郷。曠然と号す。画を父に学ぶ。安政2年(1855)の内裏造営に18歳にして加わり,当時著されたと考えられている『平安画家評判記』には「何分親玉顔の御子息ゆへ末は随分立物になられましょ」と評される。『平安人物志』には慶応三年版(1867)に登場した。明治6年(1873)第2回京都博覧会では席上揮毫に参加。明治13年(1880)京都府画学校出仕拝命,同21年(1888)改組後の同校において,絵手本の制作にも協力した。同17年(1884)第2回内国絵画共進会では褒状を受けている。墓は父と同じ光縁寺(京都市下京区)にある。
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