森 寛斎
もり かんさい
文化11年(1814)~明治27年(1894)
長州藩士石田道政の第三子として萩雁島(現萩市)に生まれる。名は公粛。字は子容,別号は桃溪,晩山などがある。天保2年(1831)大坂に出て森徹山に師事し,のち養子となり寛斎と号する。安政2年(1855)の内裏道営に際し常御殿杉戸絵御用に加わる。幕末には勤王派として国事に関わった。維新後は京都で如雲社に参加し,塩川文麟の没後は同社の中心的存在となる。明治13年(1880)京都府画学校出仕拝命,同15年には画学講義を担当。同14年(1881)第2回内国勧業博覧会で妙技三等賞,同15年(1882)第1回内国絵画共進会で銀章を受賞した。同23年(1890)帝室技芸員となっている。
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