望月 玉泉
もちづき ぎょくせん
天保5年(1834)~大正2年(1913)
望月玉川の子として京都に生まれる。本名重岑、字は主一、通称駿三。父に画を学ぶ。菊亭家に仕え、諸国を遊歴。また安政2年(1855)の内裏造営、慶応3年(1867)の明治天皇即位に際し御用画をつとめる。明治11年(1878)幸野楳嶺とともに京都府画学校の設立を建議。同13年(1880)同校東宗の副教員となるが、同22年(1889)辞任する。女学校および盲唖院の教諭も兼ね、印刷局、博物局の依頼で正倉院御物を写生した。同15年(1882)第1回内国絵画共進会で絵事功労褒状を受け、同22年(1889)パリ万博、同26年(1893)シカゴ万博でも受賞。同37年(1904)帝室技芸員となる。風趣ある写実的な画風を確立し、芦雁図は評判を集めた。
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